ごあいさつ
窃盗症とは
[窃盗症・盗癖とは]
精神障害としての病的窃盗には、「クレプトマニア(Kleptomania) 」という疾患がある。クレプトマニアは、アメリカの精神疾患の分類と診断の手引き、DSM-IV‐TR (2009)では、「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」の章に分類されていた。この章に含まれる他の疾患は、間歇性爆発性障害、放火癖、病的賭博、抜毛癖、特定不能の衝動制御の障害である。
「クレプトマニア」の邦訳(和名)としてはDSM-IV‐TRでも、国際疾病分類、ICD-10(1993)でも、「窃盗癖」が選択されていた。
2013年(平成25年)に公表、出版されたDSM-5では、「窃盗癖」は、「窃盗症」と改称され、Disruptive, Impulse-Control, and Conduct Disorders(秩序破壊的・衝動制御・素行症群)の章に移され分類された。この章に含まれる他の疾患は、間歇性爆発性障害、素行障害、放火癖、特定不能の衝動制御の障害である。クレプトマニアの診断基準には変更はなく、DSM-IV‐TRと同じである。
DSM-5によるクレプトマニア(窃盗症)の診断基準は、以下の5項目から成る。
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A.個人的に用いるのでもなく、またはその金銭的価値のためでもなく、物を盗もうとする衝動に抵抗できなくなることが繰り返される。
B.窃盗におよぶ直前の緊張の高まり。
C.窃盗を犯すときの快感、満足、または解放感。
D.盗みは怒りまたは報復を表現するためのものでもなく、妄想または幻覚に反応したものでもない。
E.盗みは、素行障害、躁病エピソード、または反社会性人格障害ではうまく説明されない。
DSM-5によるクレプトマニアの診断基準は、上記のようにかなり限定的である。問題は、この基準Aの条文をどのように理解するかである。盗品を多少でも個人的に使用することがあれば、この基準を満たさないと理解すると、竹村道夫医師がこれまで診療してきた2,100例以上の窃盗常習患者の中には基準Aに合致する症例はただ1例しかない。その例外的患者は、女子高生の乗車定期券のみを盗む中年男性であった。明らかな病的な窃盗常習患者がこの基準に合致せず、クレプトマニア患者は、臨床上、ほとんど実在しないことになる。
診断基準Aが存在する理由は、例えば、貧困で飢餓状態にある人の食品の盗みとか、職業的窃盗団による盗みとか、貴重品収集家の特殊な盗みなどを除く、という意図である。診断基準Aは、窃盗の主たる動機が、その物品の用途や経済的価値でなく、衝動制御の問題にある、という意味に許容範囲を広く理解すべきである。そもそも、物質的に恵まれた環境にある現代人が、わざわざ金銭的価値も使用価値もない物を選んで盗み、それを使用せず廃棄するということは考え難い。衝動制御の障害の結果として窃盗をする場合でも、主たる対象物は、当然見慣れた物品であることが多く、窃盗に成功して手元に残った盗品は、使用可能であれば捨てずに使用するのが自然である。盗品を使用するのは気持が悪い、というのが正常者の感覚であるかもしれないが、そのような罪悪感は、窃盗行為を繰り返し慣れるとなくなるものである。盗品が食品や生活用品であり、或いは金銭そのものであるとか、個人的使用目的であるとかの理由で、窃盗症には相当しない、とする論理はおかしい。実際、窃盗症患者のほとんどが盗品を使用し、或いは、食するし、また、自分や家族が好む食品や、自分や家族が使用する生活用品を万引きする。
また、経験的に多くのクレプトマニアクス(病的窃盗者)は、自分が毎回反省しながらもなぜ窃盗を繰り返すのか、明解に説明できない。精神病理学的にそのメカニズムを説明すると、窃盗の直前にある種の緊張の高まりを経験し、窃盗をする時にある種の満足、達成感や解放感を経験しているということになる。また窃盗を繰り返すと、その行動は嗜癖化する。クレプトマニアの患者自身は、余程、クレプトマニアという病気に対する理解がない限りは、「衝動性の障害と嗜癖化」というような説明はできず、問い詰められると、その場に合わせて返答をしてしまう。だから、被疑者が取り調べ段階で、万引きした商品について、食品は、自分が食べ、家族に食べさせるつもりであったとか、生活用品は、家庭で使用するつもりであったとか、話したとしても、それは単にその商品の一般的な使用法を自己の状況に合わせて述べているに過ぎず、さらに、他の出費予定があり、お金を払いたくなかった、などという供述も、購入と窃盗の概念の違いを自己状況に合わせて周りの人に理解可能なように述べたのに過ぎない。また、何故盗んだか、と警察で問われ、DSM-5の診断基準、C.にあるように、「窃盗を犯すときの快感、満足、または解放感」がある、と述べたら、はなはだ不謹慎であり、取調官には、反社会的な犯人と決め付けられるであろう。当人自身の患者でも、取り調べ時にそのような返事をした患者はほとんどなかった。
例えば、当院の窃盗症症例の中には、スーパーマーケットで盗んだ商品を店外のゴミ箱に投げ捨てて次の店に盗みに入った患者がいたが、そのような病的窃盗の患者でも、窃盗の対象は、食品や生活用品であった。そして、その時以外の多くの場合には、盗んだ食品を食べ盗んだ生活用品を使用していた。そして、警察での尋問に対しては、盗んだ理由について、お金を払うのが惜しかったから、と供述していた。さらに、別の中年女性は、窃盗症の治療のために当院に入院中に隣の患者の洗剤や歯磨きチューブやお菓子を盗み、閉鎖病棟に入れられた。しかしその中でも、看護の目から隠れて、病院のタオルやトイレットペーパーなど必要のない物品を盗ったり、自分用に隠したりするほどに病的であったが、入院前には、食べ物や生活用品を盗んで、食べたり、家族に食べさせたり、使ったりしていた。
また、クレプトマニア患者でも、窃盗の際に、犯行を隠す何らかの行動をすることが通例であり、衝動制御の障害であるからと言って、店員の目の前や防犯カメラの真下で万引きをする訳ではない。この事は、ICD-10の診断ガイドラインにも、「通常、何らかの身を隠す試みがなされる」と明記されている。
次に、クレプトマニアは慢性疾患であり、嗜癖行動として進行、重症化するものである。初めは、安価な食品の単発的万引きのような犯行でも、未治療のまま長期経過すると、窃盗症患者は窃盗行動に習熟し、犯行様式は大胆に、被害額は高額に、犯行の頻度は多くなる。窃盗衝動は強くなり、終には、一日の大半を、窃盗に関連した思考や行動で費やすようになる。その犯行様式は、時には、狡猾な手段を用い、手慣れた常習犯の手練手管のように見えることがあるが、実のところ、「習慣化された一連の手順」に過ぎない。病勢の赴くままに作られた末期症状というべきである。
それゆえ、クレプトマニアの診断にあたっては、盗品が食品や生活用品であったとか、それを食べたり使ったりしたとか、患者が「金を払いたくなかった」などと述べたとか、窃盗犯行を隠そうとした、というような表面的な理由によらず、なぜ、生来反社会的とは思えない人が、経済的余裕もあり、購入資金もある状況で、発覚すれば失う物が大きい危険を顧みず、敢えて少額の万引きのような窃盗行為を繰り返すのか、その真の理由を探らなければならない。
窃盗症の研究は、精神医学の中では遅れていて、その疾患概念、輪郭は必ずしも明確ではない。例えば、窃盗症に密接な関係があるとされるうつ病は、DSM-5では窃盗症の合併症の一つとされるが、国際疾病分類、ICD-10では鑑別診断に数えられている。
当院の患者の中には、これまでのところ明らかな職業的犯罪者や集団窃盗グループの構成員などはいない。受診する患者は、むしろ窃盗癖という、止めるに止められない悪癖に取り付かれた嗜癖者のように思われる。例えば、万引き衝動が止まらない、と警察に出頭した患者や、万引きを止められない自分を悲観して自殺を図った患者がいる。一度も窃盗が発覚したことがないのに受診する患者もいる。衝動制御の障害と嗜癖化メカニズムを考慮せず、所有欲や、経済的欲求からでは、窃盗の量や、回数、刑事罰(罰金、懲役刑)、社会的評価の失墜(失職、友人を失う、家族から見放されるなど)、反省と窃盗行為の繰り返し、受診行動などが説明できない。
なお、DSM-5では、抜毛癖が強迫と関連障害の章に移された。また、Pathological Gambling(病的賭博)が Gambling Disorder(賭博障害)と名称を変えて、「物質使用障害」と共に、Substance-Related and Addictive Disorders(物質関連と嗜癖障害)の分類群に含まれた。
クレプトマニアの診断基準に関しては、DSM-5でも変更がないが、クレプトマニアの有病率の認識には大きな変化があり、現在では、クレプトマニアは、以前考えられていたよりはるかに多い精神障害であるとされている。具体的には、DSM-IVで、一般万引き犯の5%未満とされていた有病率は、DSM-5では4%~24%に変更されている。また、一般人口中のクレプトマニア有病率に関しては、DSM-IVには記載がないが、DSM-5では、0.3‐0.6%であるとされており(参考資料②)、この比較的高い有病率は、上記の認識の変化を裏付けている。ちなみにDSM-5では、賭博障害(Gambling Disorder)の生涯有病率は、0.4-1.0%である。